細胞は、ATPやGTP、NAD(P)Hなどの分子を「貨幣」のように使い、エネルギーを受け渡しながら代謝を制御しています。しかし、これらの貨幣は化学反応を通じて互いにつながっているため、それぞれを独立に制御することは容易ではありません。ELSIの研究者を含む研究グループは理論モデルを用いて、複数のエネルギー貨幣を柔軟に制御すること、そのために必要な熱力学的コストの間に基本的なトレードオフがあることを示し、さらにこの原理が微生物の生息環境やゲノム進化とも関係する可能性を明らかにしました。

複数のエネルギー貨幣を均衡させることで代謝をより柔軟に制御できますが、そのためにはより大きな熱力学的散逸が必要になります。一方、単純な環境では、貨幣量を偏らせることで柔軟性と引き換えにこのコストを抑えられる可能性があります。Credit: Yamagishi, J.F. et al., PRX Life (2026)
生命活動には絶え間ないエネルギーの流れが必要です。細胞は外界から得たエネルギーを蓄え、同時進行する多数の生化学反応へと分配しています。その際、ATPだけでなく、GTPやNAD(P)Hなど複数の「貨幣分子」が、それぞれ生合成やタンパク質合成、シグナル伝達など、異なる過程に利用されます。しかし、これらの貨幣は互いに独立しているわけではなく、生化学反応を通じて絶えずエネルギーを交換しています。セントルイス・ワシントン大学の山岸純平研究員(研究当時:理化学研究所・東京大学)と東京科学大学 地球生命研究所(ELSI)の畠山哲央准教授は、非平衡熱力学に基づく最小限の数理モデルを構築し、こうした複数の貨幣が結合した系にどのような普遍的制約が生じるのかを調べました。
その結果、代謝を柔軟に制御できることと、エネルギー散逸を抑えることの間には基本的なトレードオフがあることが分かりました。複数の貨幣分子が同程度の量で存在すると、それぞれを比較的独立に調節できるため、異なる代謝経路を柔軟に制御できます。その一方で、この状態を維持するにはより大きな熱力学的なコストが必要になります。逆に、一つの貨幣が他よりも圧倒的に多い場合には、熱力学的コストを小さくできますが、個々の貨幣を独立して制御する能力は低下します。つまり細胞は、制御の自由度とエネルギー効率を同時に最大化することはできない、という経済学におけるパレート最適性に似たトレードオフ制約を受けていることになります。
研究チームは、このトレードオフが生物の生息環境や進化とも関係する可能性を指摘しました。多様な栄養条件に対応する必要がある複雑な環境では、エネルギー貨幣をより均衡させ、多少の熱力学的コストを払ってでも代謝の柔軟性を高めることが有利かもしれません。一方、単純で安定した環境では、貨幣量を偏らせることでコストを抑えることが有利になる可能性があります。さらに、ATPとGTPのバランスが核酸組成と関連し得ることから、この考え方は微生物ゲノムのGC含量の多様性にも新たな物理的説明を与える可能性があります。実際に、ゲノムおよび進化に関するデータはこの仮説と整合的でした。本研究は、代謝を個々の分子反応の集合としてだけでなく、柔軟性と効率の間で資源を配分する一つの「貨幣経済システム」として捉える新たな視点を提示しました。

代謝をより柔軟に制御性が上がるほど、必要となる熱力学的コストも大きくなります。黒線は理論による予測、赤点はランダムに選んだパラメーターを用いた数値計算の結果を示します。Credit: Yamagishi, J.F. et al., PRX Life (2026)
| 掲載誌 | PRX Life |
| 論文タイトル | Thermodynamic Cost-Controllability Tradeoff in Metabolic Currency Coupling |
| 著者 | Jumpei F. Yamagishi1, 2*, Tetsuhiro S. Hatakeyama3 |
| 所属 | 1. Center for Biosystems Dynamics Research, RIKEN, 6-7-1 Minatojima-minamimachi, Chuo-ku, Kobe 650-0047, Japan 2. Universal Biology Institute, The University of Tokyo, 7-3-1 Hongo, Tokyo 113-0033, Japan 3. Earth-Life Science Institute, Institute of Future Science, Institute of Science Tokyo, Tokyo 152-8550, Japan |
| DOI | https://doi.org/10.1103/4bqh-zhry |
| 出版日 | 2026年9月3日 |