<プレスリリース>
 
-拡散により化学平衡を破る、酵素の新たな仕組みを解明-

 

 

図1「マクスウェルの悪魔」が酵素の拡散速度を変えているイメージ図

 

【ポイント】

○ 酵素拡散増大(Enzyme Enhanced Diffusion:EED)が、酵素を「マクスウェルの悪魔」として機能させることを理論的に実証した。

○ 酵素が反応の履歴を拡散の変化として一時的に記憶し、その情報を利用して化学平衡から逸脱した定常状態を実現できることを明らかにした。

○ 本現象は、実際の酵素の物理的パラメータの範囲で実現可能であり、細胞内において生化学反応を制御するために利用されている可能性を示唆した。
 
【概要】

東京科学大学(Science Tokyo) 未来社会創成研究院 地球生命研究所(ELSI)の畠山哲央准教授、コペンハーゲン大学 ニールス・ボーア研究所の金子邦彦教授(兼 東京科学大学 未来社会創成研究院 地球生命研究所 客員研究員)、東京大学 大学院理学系研究科の一井俊介大学院生の研究チームは、酵素反応に伴って酵素の拡散係数が増大する現象「酵素拡散増大(Enhanced Enzyme Diffusion:EED)」が、酵素を情報熱力学的な「マクスウェルの悪魔(用語1)」として機能させ(図1)、化学平衡(用語2) からの逸脱を引き起こすことを理論的に解明しました。
 
これまで酵素は、反応速度を上げるものの、最終的な化学平衡状態は変えない受動的な触媒であると理解されてきました。また、近年の計測技術により、多くの酵素でEEDが観測されており、細胞内環境に何らかの影響を与えると期待されるものの、この現象が巨視的な化学平衡にどのような影響を与えるのかは未解明でした。
 
本研究では、理論モデルを用いた解析により、酵素が直前にどのように反応したかの情報をEEDによる酵素の「動きの変化」として一時的に記憶し、この情報を利用して逆反応が起きる確率を自律的に制御することで、化学平衡からの逸脱を引き起こすことを示しました。また、化学平衡からの逸脱に重要なパタメータを明らかにすることで、この現象が実際の酵素の物理的条件下で起こりうることを確認しました。
 
本研究成果は、「生命システムがいかに情報を利用しているのか」という根源的な問いに対し、非平衡統計力学と情報熱力学(用語3)の視点から、細胞内に遍在する酵素が情報を利用して生化学反応を制御しているという新たな解答を与えるものです。
 
本研究成果は、2026年1月21日(現地時間)に米国物理学会誌「Physical Review Letters」に掲載されました。

 

  • 背景

酵素は生命活動を支える最も基本的な分子であり、細胞内に遍在しています。熱力学によれば、酵素は反応のエネルギー障壁を下げることで正反応と逆反応を等しく加速させるため、最終的な化学平衡を変化させることはありません。
 
また、近年の蛍光相関分光法などの単分子計測技術の進歩により、ウレアーゼやカタラーゼなど多種多様な酵素において、触媒反応後、一時的に拡散係数が増大する酵素拡散増大(Enzyme enhanced diffusion:EED)という現象が報告され、注目を集めています。 EED自体は実験的事実として確立されつつありますが、「この現象は、細胞内の化学反応システム全体に対してどのような機能的・物理的意義を持つのか?」という問いに対しては、これまで明確な答えが存在しませんでした。

 

  • 研究成果

研究チームは、酵素を「反応状態に応じて拡散係数が変化する粒子」として記述する理論モデルを構築し、シミュレーションと解析を行いました。その結果、EEDを示す酵素は、熱力学によれば本来釣り合うはずの正反応と逆反応のバランスを破ることが明らかになりました(図2)。その物理的なメカニズムは、以下のように、非平衡統計力学や情報熱力学における「マクスウェルの悪魔」の働きとして理解できます(図3)。

 

1、情報の記録:酵素は基質と反応した場合には、直後、高い拡散係数を持つEED状態へと遷移します。一方で、生成物と反応した場合には、EED状態へと遷移せず、通常の拡散係数を保ちます。これは、直前にどちらの反応が起きたかという情報を、自身の「高い運動性」という物理的な状態に書き込んでいることに相当します。

2、フィードバック制御:酵素はこの「高い運動性」を利用して、生成物の近傍から素早く拡散して離脱します。これにより、生成物が再び酵素に結合して基質に戻ってしまう「逆反応」の確率が特異的に低下します。

3、化学平衡の破れ:過去の情報を利用して逆反応の確率だけを下げるという、この自律的なフィードバック制御の結果として、正反応と逆反応のバランスが崩れ、化学平衡とは異なる定常状態が実現されます。

 

研究チームは、このプロセスにおける情報の流れとエネルギー変換の関係を定量化し、酵素が情報を利用して化学反応を制御することを示しました。このように情報を用いて秩序を作り出していることから、酵素が「マクスウェルの悪魔」として機能していると言えるのです。

 

 

図2 酵素拡散増大(EED)がある場合とない場合の分子の濃度。EEDがない場合では、生成物と基質の濃度は化学平衡と一致する(ここでは、化学平衡で両者の濃度が釣り合うようにしてある)が、EEDがある場合では正反応と逆反応のバランスが破れ、生成物の濃度が増加する。

 

 

図3 酵素拡散増大(EED)により酵素が「マクスウェルの悪魔」として働く場合の遷移図。Sは基質、Pは生成物を表す。悪魔の顔が黒い場合、酵素はEED状態ではなく、黄色い場合、酵素はEED状態である。酵素が基質を触媒したという情報がEED状態として記録されると、その情報により逆反応が起きる確率が減少し、化学平衡からの逸脱が生じる(赤矢印)。元々の拡散速度が高すぎたり(灰矢印)、EED状態の持続時間が短すぎたり(青矢印)、反応速度が速すぎて酵素が離れる前に逆反応が起きたりすると(緑矢印)、情報が失われ、化学平衡からの逸脱は生じない。

 
さらに、この化学平衡からの逸脱が現実の酵素において起こり得るかを検証しました。理論解析の結果、平衡からの逸脱が生じるためには、酵素の反応速度、サイズ、そしてEEDの持続時間(緩和時間)が特定の条件を満たす必要があることが分かりました。 具体的に、代表的な酵素であるウレアーゼのパラメータを用いた計算では、EEDがマイクロ秒から数十マイクロ秒程度持続すれば、化学平衡からの逸脱が観測可能であることが示されました。タンパク質の構造変化のタイムスケールは一般的にピコ秒から秒のオーダーに広くまたがっているため、マイクロ秒スケールの変化は十分に現実的な値です。 この結果は、酵素が「マクスウェルの悪魔」として振る舞う現象が決して特殊な条件下でのみ起こる数理的な空論ではなく、実際の細胞内環境において自然に発生しうることを意味しています。
 
細胞は、EEDによって消費されるエネルギーを原資として、化学反応のバランスを能動的に偏らせることで、代謝回路を一方向に回し続けたり、必要な物質を特定箇所に濃縮したりといった、生命活動に不可欠な非平衡状態を維持している可能性があります。

 

  • 社会的インパクト

本研究の最大の意義は、生物学的な対象である「酵素」と、物理学的な理論体系である「情報熱力学」を数理的に結びつけ、生命現象の新たな理解をもたらした点にあります。 従来、生体分子の機能は主に構造や化学的親和性によって説明されてきましたが、本研究は「拡散」という物理的な動的性質そのものが情報のキャリアとして機能し、化学反応の運命を決定づけるという新しい視点を提供します。 これは、生命が乱雑な環境下で、いかにして情報を処理し、エネルギーを有効活用しているかという根源的な問いに対し、「細胞内に遍在している酵素が、物理的な動きを情報として使っている」という新たな解答を提示するものです。

 

  • 今後の展開

本研究で提唱された理論は、実際の酵素実験における検証を強く動機づけるものです。今後は、EEDを示す酵素系において、実際に化学平衡からの逸脱が観測されるかどうかの実証実験が進むことが期待されます。 また、本研究の成果は、酵素の設計や人工分子への応用に新たな指針を与えます。例えば、自身の反応状態に応じて運動性を変化させることで、外部からのエネルギーを使って目的の物質を濃縮したり、化学反応を一方向に進めたりする、情報を利用した分子エンジンの設計が可能になることが期待されます。さらに、医学・創薬分野においては、従来の酵素の構造を標的とするアプローチに加え、酵素の「拡散」を制御することで代謝反応のバランスを調整するという、全く新しい作用機序に基づく薬剤開発の可能性が開かれます。

 

  • 付記

本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業(JP22K21344、JP21K15048)、理化学研究所 大学院生リサーチ・アソシエイト・プログラム(JRA)、およびノボ・ノルディスク財団(NNF210C0065542)の支援を受けて行われました。

 
 
【用語説明】

  1. マクスウェルの悪魔(Maxwell’s demon): 19世紀の物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが提唱した思考実験。気体分子の動きを見分けることができる微小な存在(悪魔)が、分子を選別して扉を開閉することで、“エネルギーを使わず”に温度差(秩序)を作り出し、熱力学第二法則を破れるのではないかというパラドックス。現代の情報熱力学において、悪魔が情報を得てメモリに書き込み、フィードバック制御を行い、メモリを消去する一連の過程のどこかにおいてエネルギーが必要となるため、系全体では熱力学第二法則と矛盾しないことが解決・定式化されている。
  2. 化学平衡:化学反応において、正方向の反応と逆方向の反応の速度が釣り合い、見かけ上、反応物と生成物の濃度が変化しなくなった状態。外部からのエネルギー供給がない閉じた系では、この状態が最も安定となり、酵素はこの状態を変えることはできないというのが従来の通説であった。
  3. 情報熱力学:情報と熱力学的な量(エントロピーや自由エネルギー)の関係を議論し、情報の処理にかかるコストや、情報を用いて取り出せる仕事量などを解析する物理学の分野。

 

【論文情報】

掲載誌:Physical Review Letters
論文タイトル:Enzyme as Maxwell’s Demon: Steady-state Deviation from Chemical Equilibrium by Enhanced Enzyme Diffusion
著者:Shunsuke Ichii, Tetsuhiro S. Hatakeyama, Kunihiko Kaneko
DOI:10.1103/flv6-zw1v

 
 
【研究者プロフィール】

畠山 哲央(ハタケヤマ テツヒロ) Tetsuhiro S. Hatakeyama
東京科学大学 未来社会創成研究院 地球生命研究所(ELSI) 准教授
研究分野:システム生物学、生物物理学、普遍生物学、複雑系科学
 
【お問い合わせ先】
(研究に関すること)
東京科学大学 未来社会創成研究院 地球生命研究所(ELSI) 准教授
畠山 哲央
Email:hatakeyama@elsi.jp
TEL:03-5734-3762
 
【取材申し込み先】
東京科学大学 地球生命研究所 広報室
Email: pr@elsi.jp
Tel: 03-5734-3163 Fax: 03-5734-3416